雨はあいかわらず降り続き道央の台地を濡らしていた。
かつて、留萌からさらに日本海に沿って北上し、さいはてのノシャップ岬・稚内を目指したことがあった。どこまでもまっすぐな天売国道は景観が広いから速度を感じさせなかった。右手のサロベツの草原にエゾシカが群れをなして併走していた。忘れられない光景だった。
指差す向こうに鹿が疾走
この日の「留萌国道」は蛇行する留萌川に沿って南下するから、カーブが多いうえに起伏が激しい。その道が「深川国道」に名前を変える分岐のあたりで、深川行きの留萌本線は左側に方向を変える。
ドラマ好きには馴染みの「恵比島」駅はそこにあった。
1999年のNHK連続テレビ小説「すずらん」、2000年には映画「すずらん」のロケ地となり茶の間の脚光を浴びた。恵比島駅は「明日萌」駅として登場し、橋爪功演ずる駅長の娘・主人公の萌(柊瑠美)が新鮮な演技を披露した。
現在では蒸気機関車C11-171を復元し、「SLすずらん号」と称して深川−留萌間を運行し、明日萌観光の目玉となっている。
増毛もそうだが、留萌本線は映画の舞台として活躍している。
やがて旭川市の西隣・深川の市内に入る。
深川開基以前の1857年(安政4年)のこと、北海道の名付け親・松浦武四郎がアイヌを案内に、石狩川をさかのぼってこの地に入った。
その記述が開発の厳しさを予測させるが、道路作りや原始林の開削は主として屯田兵や囚人の手にゆだねられた。彼らは死者の山を乗越え、想像を絶する苦労をしながら使命をやり遂げた。
5月25日(旧暦)早朝イジヤン(現深川市広里)から舟で石狩川を上り始めた。右は山で、左は平地である。川の流れがだんだん早くなってきて舟を漕ぐのが大変である。ヤソシハラ、オツカヤマナイを過ぎると、両側は険しい山で、川の中には所々に大きな岩があり、水は渦を巻きながら大きな音を立てて流れている。ハラムイからは、綱で舟を引きながら400m程進んでシキウシバについた。このあたりをカムイコタン(神居古潭=旭川市との境界)と呼んでいる。 |
司馬遼太郎は「屯田兵と囚人とは名誉と汚名との違いがあり、程度の差はあるが、共に検束労働力である。」と「北海道の諸道」で述べている。屯田兵は、現在の自衛隊の恵まれた環境とはかけ離れた、隙間風を防ぎようのない一枚板の兵舎で飢えと寒さと戦いながらの労働であった。
真か否か定かではないが、「深川」の地名は江戸深川の人が移住してその名がついた、という。明治の中期以降各地方から集団で北海道各地に移住してきたから、十分考えられるが、現深川市のホームページを見てもその記述は見つけられない。
カムイコタンは旭川市の西の入口、といってもまったくの山の中だ。
旭川の観光といえば大雪山、層雲峡から富良野・美瑛へと続く東北側に焦点が当たり、カムイコタンはかげが薄い。仕事帰りに寄ろうと思ったことはあったが、いつも通り過ぎるだけの場所だった。
はじめて車を停めてじっくりと見る機会を作った。ここは松浦武四郎の記述の通り、原始の面影を残す岩肌と険しい崖の続く美しい渓谷地である。
アイヌ語で「神々が住む郷」を意味するこの地は、石狩川の急流にそった奇石怪石が約10km続き、吊橋近くには激流が作る「神居古潭おう穴群」がある。
断崖・奇岩のため昔から交通の難所であり、暴力の神ニッネカムイを退治した神サマイクルカムイの話など、アイヌの伝承や伝統が数多く残っている。
また神居古潭はアイヌの神事が行われる神聖な場所でもあり、毎年9月に行われる「こたんまつり」では、美しい紅葉の中でおごそかな儀式が行われる。
周辺には竪穴式住居跡やストーンサークル(墳墓)などの遺跡があり、桜・新緑・紅葉の時期は渓谷美が一層引き立ち、すばらしい景観を目にすることができる・・・しかしこの日はあいにくの雨。
色づいた渓谷の木々もくすんで見えた。
旭川で忘れてならない作家といえば三浦綾子。
大正11年に旭川市に生まれた三浦は旭川高女を卒業後教員の道に進む。若くして肺結核を発病し、その闘病中に30歳でキリスト教の洗礼を受ける。42歳のとき朝日新聞懸賞小説に応募した「氷点」が入選したことから、この無名の旭川の婦人は一躍時の人となり、全国の文学ファンに注目されることになった。
「氷点」も「続氷点」も「塩狩峠」も読んだ。「氷点」は殺人者の子供を育てるという、キリスト教でいう原罪をテーマにした重くてシリアスで、ショッキングな作品だった。このテーマを書くこと自体がたいへんな挑戦であるし、作家がその重さによく耐えたと思った。
しかし息を抜けないような重苦しいストーリー展開とは別に、彼女は物語の背景となった旭川郊外東神楽の情景を、あますことなく表現していた。
以下「氷点・上」より抜粋してみたい。
みたところ見本林はひっそりとして、子供達の声も姿もなかった。 この見本林というのは、旭川営林局管轄の国有林である。 この見本林を300メートルほど突き抜けると、石狩川の支流である美瑛川の畔に出る。氷を溶かしたような清い流れの向うに、冬にはスキー場になる伊の沢の山が見え、遥か東の方には大雪山につらなる十勝岳の連峰がくっきりと美しい。 子供たちは林の中の鬼ごっこや、かくれんぼに飽きると、美瑛川で泳いだり魚をすくって遊ぶのだった。」 |
三浦の晩年は愛と祈りとキリストの教えに傾倒していった。
平成11年多臓器不全のため、旭川リハビリテーション病院で逝去。享年77歳、惜しまれる死であった。
夕刻6時を過ぎたばかりの旭川駅は冷たい雨のせいか、いく分元気のないように見えた。
この駅は北海道の真ん中にあって交通の要衝となっている。函館・札幌とを結ぶ函館本線、稚内に向かって北上する宗谷本線、網走を経由して知床に向かう石北本線、加えていまや観光名所となった美瑛・富良野への富良野線の乗換駅。
人も農産物も海産物も旭川に集まり、旭川を経由して近隣に配貨された。
車を市街地の駐車場にいれた。
駅からまっすぐに続く平和通買物公園(メインストリート)を行き交う人たちは、早くもコートが欠かせない。幸いなことに雨はやんだが、旭川は北海道でももっとも寒い土地柄だから、10月の夕暮れはすでにふるえが来るほど寒い。
ラーメンをいただくために久しぶりに「山頭火・四条店」をのぞいた。うーん、普通の味で特筆すべきは何もない。
帰りの便は旭川発の最終20時30分JD198便を予約していた。
市内から空港までは車で30分ほどの道のりだが、また土砂降りの雨が降ってきた。車の多い幹線道路は照明灯が少ないため暗く、雨のため道路標識も見えにくい。感を頼りにやっと危険なドライブから脱し、空港にたどり着いた。長い旅であった。
「北の二都」の歴史や文化に迫ろうという企画でスタートした今回の旅だが、そんな主題がぼやけてしまった。北の大地が訴える最高の素材はやはり豊かな大自然、その大自然の上に人間が作った造形物はみごとに敗れ去った。そして、この旅はまたしても、自然の雄大さを確認するための旅になってしまった。
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